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まず、マリー・アントワネットの子どもたちの話の前に、フランスの18世紀の話を見てほしいの。


次の記事リンクは、世紀のイギリス人アーサー・ヤングが、フランス革命の時期にフランスに旅をしながら日記をつけているんだけどね。その記事にあるところを引用しました。
楓の記事 「マリー・アントワネット フランス紀行から
不衛生で貧しく、子供は1歳までの生存は50%に見たず、60歳までの生存は20%に満たないのです。平均寿命が25歳と35歳説がありますが、どちらにしても、花の命は限りなく短かったのです。
つまり平均寿命が25歳と35歳説があるのよね。
楓の記事 「マリー・アントワネット フランス紀行から
要約すると、18世紀後半のフランスの乳児、幼児の死亡率は、1歳未満の乳児の死亡率25%。フランス全土の幼児死亡率25.6% で、4人に1人は誕生日前に亡くなっている。
この平均寿命でみると、革命で処刑された人は14歳の少年や17歳という若いマドモアゼルもいたけれど、ルイ15世にしても、マリー・アントワネットにしても、この時代の平均寿命は超えていた。

パリのように都市に住む富裕層や貴族、もちろん王族もそうだけど、彼らのように寿命が短いわけじゃないのね。いい暮らししているし。第一身分、第二身分って、ほら実質2%くらいなもんよ。ブルジョワジーや知識層なんかをいれて「金持ち」ってすると、も少し比率は上がるだろうけど。

さて、このフランス革命時、庶民ってどのくらいいたのかな。
マリー・アントワネット フランス紀行から
98%を占めるフランスの第3身分(市民)にも、ブルジョワ層(富裕な商工業者や銀行家)、知識層(弁護士や医者や文筆家ほか専門的職業)がいますが、フランスの80%を占める農民がこの第3身分に所属しています。
なるほどね。フランスの80%を占める農民の生活はどうだったんだろう。

マリー・アントワネット フランス紀行から

アーサー・ヤング
イギリス人の目にとてつもない光景がはいる。ガラスのない窓。多数の家屋の光景である。

楓いわく
過酷な労働と飢え。硬い皮膚と深い皺の農民の女たち。すべてが失われ、泣き叫ぶ赤子にお乳を与えることもできない。
当時は貧農や貧民も多くって、水道設備などがなく庶民が入浴するのは19世紀後半。この頃は入浴とは違う意味の冷水浴はあったけど、衛生を考えたものじゃない。

マリー・アントワネットくらい?

フランス革命当時も、貴族だって身体に虫が湧いているのは当たり前。髪はシラミだらけ、体はノミだらけです。

当然、フランスの80%は貧民で、窓のない藁の家、汚れた部屋に住み、垢や汗にまみれた悪臭の人々。

映画の話、覚えてる?「パフューム ある人殺しの物語」 を。

これはちょうどマリー・アントワネットの時代と重なるのよ、確か。
記事 パフューム ある人殺しの物語 Perfume: The Story of a Murderer

この記事も、当時の衛生と貧困さが伝わってくる。

排泄にしても、ヴェルサイユ宮殿は「移動式おまる」でしょ。それが不足していて外で用を足すのよねっ。庶民はそれを外に捨てるのよ。

◆室内に排泄物があるのは、当時の慣習です。排他施設などはないんですよ、宮廷でも「移動式おまる」。

記事 フランソワ・ブーシェ トワレ・イン・タイム

そうなると伝染病や病が蔓延しているわけ。いつも誰かが死んでいる。死体、汚物、塵芥などの腐敗物がいつも身近ってことよ。

フランス革命が始まる前の頃から、酷かった。ひとつは冷害。これは世界的に同じ現象だったらしいの。フランスはそれに加えてラキという山の噴火で空気は汚染状態。そして戦争。国庫が空状態で税金は取られる。そんな時代のルイ16世もついてないよね。

そして都市に住む人たちも貧富の差が激しくって、でも平均的な市民も多かったわ。でもね、この当時のサド侯爵は、未成熟な少女を陶酔の対象にもしていたの。そういう子供たちって平均以下の庶民の子。お金をもらえるからね。親も子も。ただ差し出した親は、使用人だと思っていたみたい。

記事 サド侯爵 マルキ・ド・サド

さらに低い教育水準。だから説明のパンフレットをみてもわからない。あの「女性および女性市民の権利宣言」をつくったオランプ・ド・グージュも読み書きできなったらしいね。

結局、税金払って手元に何も残らない庶民が、暴動を起こして、反王党派が乗じたというのが一番シンプルじゃない?

よくさ、悪役の王の愛妾がいたら、マリー・アントワネットは矢面に立たなかった悲劇の哀れな王妃って解釈があるけど、ありえないですよね。良識的、常識的に考えて。

愛妾がいたとしても結局、革命は起こったわけ。だって一番ひどい時代だったから。明日生きることが切実だったっていう時代なのよ。

ちょっと手元にお金が残る市民だって、パンが値上がりしたら、もうパニック。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年3月

こういう時代にタンプル塔に幽閉されてしまった王一家。マリー・アントワネットの子供達の記事はすっごくあるけれど、ちょっとロマンティックな悲劇小説のように、可哀想なこどもたちを、”はげしく”て ”こまやか”に書いている。上手すぎ!

MAKI は、そうじゃなくて、小説や漫画はぬきにして、自分の疑問と事実と、そして時代の背景を考えて、二人の子ども達を見てみたいと思ったのよ。(実は皆さんのように、小説的に書ける技術がないからね!)

Louis-Charles-(C)Louis-Charles De France on MySpace.jpg

(C) Louis-Charles De France on MySpace

この一人になる前は、靴屋のシモン夫妻が面倒をみていたのよ。 「しかし扱いはひどく、虐待されていたとも言われる」とあるけれど実は違うよう。

1792年8月にタンプル塔に幽閉された王一家は、しばらくは一緒に生活していたのよ。

記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王
記事 マリー・アントワネットの娘 マリー・テレーズ王女の回想録 1

タンプル塔の食事は、全部で1人19皿のディナー。しかも浴槽や楽器まで持ち込まれていたと、アンドレ・カストロ氏は述べています。

1793年7月3日、国民公会の法令で、王太子ルイ・シャルルは処刑された国王の3階の部屋に移動することに。


ルイ・シャルルとシモン夫妻 歴史家の証言から


■ 医師の定期的診断を受けていた記録 ジャック・ブロス
■仕立て屋が衣服を納めていた G・ルノートル
■愛玩用に子馬、雛鳥が与えられた G・ルノートル
■シモン夫妻は籐の椅子つき浴槽と温度計を購入していた G・ルノートル

この靴屋のシモン夫妻が、部屋をうつった王太子ルイ・シャルルの面倒をみていたわけ。サン・キュロットをはいて、革命歌の「ラ・マルセイエーズ」を歌い、とても親しく居住していたの。

13歳の英雄ジョゼフ・バラ(Joseph Bara)が処刑された話をシモンはルイ・シャルルに話して聞かせたりもしたのかしら。

翌年の1月にシモン夫妻は退去することを命じられたらしいの。マリー・テレーズは、他の管理を任されることになって、王太子を置き去りにしたと書います。

この靴屋のシモン夫妻が去るときには、王太子ルイ・シャルルには、異常がなし。

姉のマリー・テレーズの手記を編纂したジャック・ブロス氏は、彼女の手記ではシモン夫妻が虐待していることになっていて、とても真実とは思えないと述べているの。医師ティエリー、薬剤師ロベールのそれぞれの手記がそう事実を述べているのにと・・・。
「私と叔母はよく屋上にあがった。平屋根には弟もでてくる。母に弟の姿がみえるように。

シモンは想像を絶する虐待を受けていた。私たちがもう塔にいないという噂がながれ、弟の姿がみえるように庭へ降ろす。

シモンは私たちが贋金(偽金)をつくり、外部と連絡を取っていた、父の裁判中に父と連絡を取っていたと弟に署名をさせた。」

引用・要約 ジャック・ブロン編 吉田晴美 訳 「ルイ16世幽因記 マリー・テレーズの回想録」
監視が厳しくなったのは、1793年9月2日のマリー・アントワネットの救出のための「カーネーション事件」後から。9月21日に、マリー・テレーズは自由に使える居室がひとつになったことを書いてますよ。

1793年10月にマリー・アントワネットの裁判が始まった。

マリー・アントワネットの罪状の証拠が届かずにいて、母子姦通を捏造した裁判になっていくんだけど、前日の告発書に「ルイ=シャルル・カペー」と署名があり、「それは本当です。」と何度も繰り返ししたというのは、ジャック・ブロスもマリー・テレーズの手記も同じく認めているところ。

その尋問の日、マリー・テレーズは回想録で、弟の部屋へ行き、弟を優しく抱きしめている。そのあと尋問の役人にマリー・テレーズは連れて行かれる。

疑問なんだけど、この10月8日に、何人もルイ・シャルルを見ているんだよね。誰もその姿から虐待のことを認めたところもないのよ。

尋問にきた役人や委員がルイ・シャルルの虐待や不衛生な点を発見していないの。

しかも、マリー・テレーズは優しく抱擁しているじゃない?もし、シモン夫妻が虐待していたら、ルイ・シャルルは顔や手足が腫れていて、ノミやシラミが身体についているはずだがら、抱擁するどころか、驚くはず。


マリー・テレーズの回想録のシモン

弟が毎日シモンといっしょにカルマニョールやマルセイユ兵のおぞましい歌を歌うのが聞こえる。シモンは弟にフリジア帽を被せ、カルマニョール服を着せた。

窓辺で歌を歌い、神や家族や貴族が耐えない悪態を教えている。シモンは弟の喪服を脱がせた。

熱を出してクスリも効かない。むやみやたらに食べさせ、ブドウ酒をたくさん飲ませ、肥満して背も伸びない。シモンはそれでも弟を外の空気を吸わせていた。

引用・要約 ジャック・ブロン編 吉田晴美 訳 「ルイ16世幽因記 マリー・テレーズの回想録」
私の疑問はマリー・テレーズがこうした光景を見ていられる環境だったのかな。この当時は塔の管理人ティゾン夫妻(妻のほうはのちに精神病院へ)、そしてルイ・シャルルの教育係りのシモン夫妻。

ジャック・ブロンの調査によると、シモンは当時の役人たちの間では、どうして平等の思想にかぶれた男を教育係りにしたのか不思議がっていたようですが、シモンは教育も無ければ教養も無いけれど、親切で寛大だったという証言があるそう。

◆シモン夫妻がくる二ヶ月前。

3b72fe80.jpg

タンプル塔のマリー・テレーズとルイ・シャルル

熱をだしてとあるところですが、まだアントワネットも移されていない5月には熱を出し、医師ティエリーは侍医ブリュニエから処方された薬をのませ、回復。

6月初旬。遊んでいて怪我をしたルイ・シャルル。

このときも医師ティエリー(常勤の典獄医)のほか、外科医スーぺ、ジュパルが診断にあたりひどくならなかったらしい。

◆アントワネット、エリザベート王女、マリー・テレーズといっしょに暮らしていたこの時期から、運動不足と換気が原因だったようだね。

でもシモンは外へ連れ出して空気を吸わせているのよね。運動不足と換気に気を配っていたと思うんだけど。


独房のルイ・シャルルを訪ねた悪徳の士 私がひっかかる人物


1794年の1月18日頃から半年間、8歳になった王太子ルイ・シャルルは1人になってしまったのね。身の回りを世話してくれた二人がいなくなって、歌も歌わなくなったルイ・シャルル。

1794年の7月28日に、バラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラが訪れた。処刑されたロベス・ピエールの後釜というか、実力者。このバラスは「悪徳の士」と呼ばれたすごい腹黒い人。

この人の愛人だったのがジョセフィーヌで、ナポレオンと結婚したのよ。

ナポレオンが英雄になると、なんとブルボン家のプロヴァンス伯(後のルイ18世)と手を組んだの。ところがナポレオンのクーデターで、バラスは辞職。これまでの巨額の富をすべて手にして隠遁生活にはいるんだけど。

なんの歴史書にも、小説にさえもないことなんだけどね、このバラスがルイ・シャルルと会って、利用しない手はないでしょう。

1799年、マリー・テレーズはプロヴァンス伯の息子で、テレーズにとっては従兄妹になるアングレーム公ルイ・アントワーヌと結婚。同年にさきに書いた、ナポレオンのクーデター。

タンプル塔に来たときに、マリー・テレーズとプロヴァンス伯とを結びつけるか、ルイ・シャルルを利用するかを値踏みしていたかも。

◆バラスが絡んでいた銀行家プチチバルがルイ・シャルルを預かっていたなんてあるけれど、関係ないと思うだけどなー。

有力な銀行家や御用商人と結託して暴利を貪ったバラスが、邪魔になったプチチバル家を皆殺しにして、正当な理由のために、意味深にルイ・シャルルをくっつけただけだと思うよ。

そのかわり、バラスは新しい金の卵をみつけたと思う。マリー・テレーズとルイ・シャルルを。

でもね、ルイ・シャルルに関しては、バラスはルイの直系ではないと踏んでいたのかも。

記事 フランス革命家の一市民の日記 1973年1月


マリー・テレーズの回想録のルイ・シャルル 独房時期 1794年1月~1794年7月

弟の部屋の扉が開き、人が歩き回る音が聞こえた。あとで知ったところではシモンが出て行った。役人の職と弟の監督者の職のどちらかを選択しなくてはならなくて、残酷にも弟を一人放ってあることも知った。なんと野蛮。病気にかかっている子を鍵と錠をかけた部屋に閉じ込めている。人を呼ぶ粗末な呼び鈴も決して引こうとしなかった。

弟はベッドを整える力もなく、ノミや南京虫がベッドを這い回り、シャツも靴下も取り替えてもらえなかった。

壺一杯の水は貰えるのだから身体を洗うことはできたはずだけれど、シモンやほかの者たちが震え上がらせていたからだ。

こういう生活は弟の心と身体をむしばんだ。

引用・要約 ジャック・ブロン編 吉田晴美 訳 「ルイ16世幽因記 マリー・テレーズの回想録」
一番さいしょに私が書いたのは、「フランス革命当時も、貴族だって身体に虫が湧いているのは当たり前。髪はシラミだらけ、体はノミだらけです。当然、フランスの80%は貧民で、窓のない藁の家、汚れた部屋に住み、垢や汗にまみれた悪臭の人々。」でした。

◆つまり80%のフランスの民衆と同じ状況になったわけ。

でも。自分で身だしなみを整えられる環境にあったのよ。マリー・テレーズも書いているけれどね。ただ、それをできなかった弟に驚いたと思うの。

◇8歳の頃のマリー・テレーズは、きっと一人で出来ていたことで、ルイ・シャルルがそれをできなかったことに驚いてしまったのでは。たぶんね、ルイ・シャルルは8歳でも、一人で服を脱いだり着たりできる子ではなかったと思うんだよね・・・。

ルイ・シャルルは

■呼び鈴を使わなかった。
■自分でベットを整えなかった。
■身体を洗う壺の水を使わなかった。

優しくしてくれたシモン夫妻は急に出て行って、また1人になったと思ったのでは。父と母と離れるたびに泣き、そして親しくなったシモン夫妻まで・・・。放心状態のルイ・シャルルは、一人で生活しなきゃという気持ちよりも、「どうしたらいいの?」とばかり考えることもできなかったと思う。誰かが来るまで待っていただけで・・・。

というよりね、ルイ・シャルルは自分で起きて、着替えて、考えて、身体を洗って、食事して、排泄して、寝る。という一連の生活を知らなかったのかも。

誰かが来て、起こして、着替えさせてくれて、ということに慣れて、その「誰か」が来るのを待っていた。だから、呼び鈴も使わなかったじゃなくて、使えなかったのだと思う。

人がやってくれることが当たり前だったから、どういうふうにするのかを、覚える必要がなかったのかも。
sweetさんが情報提供の記事を書いてくれました。

マリー・テレーズの回想録で翻訳されていない部分です。ルイ・シャルルは自分でもできたことをしなかったっていう一文。

記事 マリー・アントワネット 記事紹介

◆貧民のフランスの子どもは、自分が餓死、病死するか、親が二人とも餓死、あるいは病死や戦死して孤児になるってことも多いの。

食事のでる錠のかかった塔に住むのがいいのか、食事もできない窓のない藁の家がいいのか、私にはわからないけど。

半年以上、一人だった時期にも、食事は一日一度パンは与えられていたの。このとき、貧民はパンを口にできなかった。高くて、豚のえさだった「じゃがいも」でした。

ただ、シモン夫妻がいたときには、ルイ・シャルルは元気に無邪気に生きていたのよ。病気になって死んでいったのは、新しい監督者が来てからなの。

◇そしてマリー・テレーズの回想録はとてもおかしいところがある。日付なの。

半年後のの7月28日に、バラスが来て、弟ルイ・シャルルが身体を洗うこともせず、一人だったのを発見したのを知っているのに、バラスが来たときに、「弟は相変わらず不潔だった」と書いているところ。


1794年7月から1795年6月まで ローラン、ゴマン、ラーヌ


1794年の11月初めに、信頼できる共和主義者をローランにつけることになったらしい。11月8日にゴマンと二人で面倒を見た時期。その後ローランからラーヌに代わる。

この1794年7月から11月頃までの間は、タンプル塔の監視をローランが一人でみていたとありました。

◆鍵や錠はローランが持っていたことになるのでは?

ローラン(Jean Jacques Christophe Laurent 1770–1807)はルイ・シャルルの様子をマリー・テレーズに報告をしていた。ゴマンが来てからは、ゴマンがルイ・シャルルの身の回りを清潔にした。

このローランってマリー・テレーズには頼まれた本をとってきたり、優しく接していたよう。

◆ゴマンが来るまでの7月以降の約3ヶ月間は、テレーズに親切に報告するだけで、どうしてお世話してあげなかったのかな?だって、このとき彼一人だったんだし。

それで「信頼できる共和主義者をローランにつけた」というのがゴマンのことなのかな?

ゴマンがきたときには「明かりのない部屋で」とある。そうだよね、宮殿や貴族、ブルジョワや都市に住んでいる市民なら、たしかに明かりあるもんね。

でも多くの庶民には「明かり」がなかった。

ただ、ルイ・シャルルの部屋には「明かり」はあったのよ。国王が使っていた部屋に「明かり」がなかったとは書いていないもん。

とういうことは、ルイ・シャルルが「明かりもつけなかった」ということなのね。一人ぼっちで何もできない王子さま。

痛いよね。

◆ローランはマリー・テレーズとルイ・シャルルの二人の世話をするためにきたのです。それなのにローランは何もしてあげなかったんだわ。

保安委員はローランに疑惑をむけて、ゴマンを向けたというわけ。

マリー・テレーズも書いていますが、ゴマンはシモン夫妻のように、世話を焼き、ルイ・シャルルといっしょに話し相手になったそう。

ゴマンは膝と手首の腫瘍から、くる病になりかけていると気付き、3階の国王の居室から、下のサロンに移され、庭で運動をさせるよう頼んだそうです。

ただ、ルイ・シャルルは階段をあがったり、庭で歩いたり、屋上で外の空気を吸ったりするのを嫌がったそう。冬の季節だからかな。シモンとはいつもそうしていたのにね。

この疑惑視されていたローランは、1775年の3月末にラーヌ(Étienne Lasne 1758-1841)と代わることになりました。

このローランは、悪徳の士バラスの愛人ジョセフィーヌ(のちのジョセフィーヌ皇后)の知り合いのようなんだよね・・・。

そしてラーヌっていう人は、とても良い人だったようで、ゴマンといっしょにルイ・シャルルの世話をしたとあります。


ルイ・シャルルの死


1795年、6月8日に10歳で亡くなりました。国民公会へ報告されたのが、翌日6月9日です。wiki日本版 には7月7日となっていますが、6月8日。死因は結核であり、遺体には疥癬 と腫瘍が見つかったという記録。

ラーヌ(Étienne Lasne 1758-1841)が来た頃には、ルイ・シャルルは、ひとりぼっちの暗闇の生活、不衛生な民衆のこどもたちと同じ生活からは抜け出したものの、独房の半年、ローランの管理の3ヶ月間の9ヶ月は、どうやら「生活を続ける」っていう、基本的な欲求が失ったよう。

マズローでいう、生理的欲求がなかったのだと思う。

医者デソーはルイ・シャルルを治療中の間に死亡。後任はデュマンジャンと外科医ぺルタン。
6月8日、医師たちがひと匙の水薬を飲ませ、引き上げてまもない二時頃、断末魔のあえぎともいえる声をあげて苦悶しはじめた。そばにいたのはラーヌだけだった。そのあとすぐに呼吸困難になり、ラーヌがベッドから抱き起こしたとき息を引き取った。by ジャック・ブロン

シモンとの生活で、王子は身体を洗い、虫のいないベッドで休み、塔の上に付き添われて空気を吸い、歌を歌って、チェッカーをしたあとの突然の9ヶ月のひとりぼっちは、失ったものが多い。

話す人がいないってこと。これが一番の原因だったと思う。

ラーヌとゴマンに付き添われても、嫌がったルイ・シャルルは、ただただひたすら誰かに側にいて、話を聞いてもらい、衰弱していた身体を横たえたかったと思う。

バラスが来て、ロレーヌを送り込んで、独房と庶民の子ども達のような生活から逃れられなかったに3ヶ月。この3ヶ月はとても大きい痛手。

ルイ・シャルルはロレーヌに期待したと思う。「話相手」として。

でもロレーヌはルイ・シャルルの世話はしなかった。なによりもマリー・テレーズを手なずけたと思う。

バラスがアルトワ伯と関係を持ったのは、たぶんこのタンプル塔での二人の子どもとの出会いではなかったのかしら。



マリー・テレーズについては、友人の楓が記事にしている途中。彼女が引用しているジャック・ブロン編 吉田晴美 訳 「ルイ16世幽因記 マリー・テレーズの回想録」から、いくつか私も要約させてもらった。
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